コミュニケーションについての雑感-22 
 アニメも人間もすぐに判定するのはテスト対策国語の影響も?


ガルパンやウマ娘はスタート時にあまり注目をあびていなくても、しり上がりに人気が出た例でした。
でも多くの場合は出だしで観る気をなくされたらそれっきり。

私が深夜アニメにはまった、10年ちょっと前までは「とりあえず3話までみてみようか」という声がネットで多かったように思います。でも最近は第1話・・・・早い人では前半パートでその後観るかどうかを判断する人がどんどん増えているように感じます。

人間関係でいえば、最初の第一印象ですよね。実際におしゃべりもしないで、パッとみた印象だけで「この人無理そう」と思ったらそれっきりという場合が少なくないです。
しかもアニメでも人間でも、その「自分がいい」と思うイメージが非常に具体的でハードルが高い。
なかなかそんな理想通りのことなんてないだろう、というくらいに判定基準が厳しくて、「合わない」と切り捨てている。

過去に周囲からさんざんな目にあって、それで「わかってくれる人がいない・・・」と絶望している方々は本当に大変な日々を今でも送っていると思います。

でも、自分から譲歩なんてしたくない、100%自分の思い通りにならないと気が済まない、という人はそりゃちょっと違うだろうと思います。


話がちょっと横にそれますが・・・・
アニメ感想などをみてもすごい人がいますよね。
アニメの隅々にまで「こうしてほしい」「どうしてこう描かないんだ」と自分好みに注文をつける人。
当然のことながら放送されているアニメは「あなただけに楽しんでもらうアニメ」をつくっているわけじゃないんですよね。
どうしてもそうしてほしいのなら、自分が100%出資のスポンサーになって、スタッフから声優さんからプロデュースして、演出から作画監督からすべて行う・・・それくらいの覚悟が欲しいです。(実現は無理だと思いますが 笑)

それと同様に、他人への要求も細かい。

それでちょっとでも違いそうだと「切り捨てる」・・・その象徴がアニメをすぐに切り捨てるということにも表れているのだと思います。

こうした風潮でわきまえておかなければならないのは、自分が周囲に要求するのと同じように、周囲も自分に対して高いハードルを要求するようになる、ということなんですよね。
自分は他人に対して厳しく注文つけるのに、自分は他人から注文されない、なんて虫のいい話はありません。



「すぐに判定」というところに戻ります。

これらの風潮を別に言い方にすると「白黒をパッとはっきりさせる」というデジタル思考になります。
分かりやすいんですよね・・・・デジタル思考って。「あれか これか」という二つに一つだから。
あいまいな部分はすべてないものとして考えていいんだから、忙しい現代人にはピッタリなのでしょう。

日本人は古来、「あいまいさ」とか「本音と建て前」とかが対話の中に複雑にからみあうことで有名です。
何が本音なんだか、どこまでが本音なんだかが非常に分かりにくい。
その場の気分でコロコロとかわる人もいるから、「これが判定基準だ」という明確なルールも定まらない。

外国人が日本人とのやりとりで最も苦労するのはこういう部分ですよね。
そしてそれは現代人にとっても難解なものになってしまった・・・感覚が外国人のそれと近くなってしまっているわけです。

もともとこうした感覚はナマのやりとりを幼いころからずっと続けてきて何となく会得してくるもの。
でもこれがなかなかくせ者で大人になっても高齢者になっても難しいものです。
それこそ深層心理学者の河合隼雄先生の言葉のように「人間の心なんてわからない」

→参考 コミュニケーション雑感15 信頼感の薄れた社会を何とかしませんか?
      コミュニケーション雑感5「他人の気持ちが分かる」って可能?


もしかすると小学校からの学校教育・・・特に国語の授業の影響が強く残っているのではないか・・・という想いが私にはあります。
客観的な採点が必要ですから、明確にこれは正解 これは不正解 と白黒はっきりしなければいけない。

そうなると特に感情などの心の中のことで、人間にとってもっとも重要な意識世界の奥、無意識世界の領域などは出題するわけにはいきませんよね。矛盾に満ちた葛藤があったり、自分でも気が付いていない多様な気持ちが混在している領域ですから。
「こんな気持ちもどこかに隠れているかも」という可能性を多様に考えるのが、真に人間の心の探求なのに、それではテスト対策にならない。

テスト対策では、文の中から誰もが疑いもなく「これだ」と断定できる明確な・・・白黒はっきりしたことしか対象としないのが宿命です。

だから以前ふれた 心の図 でも表に出ていることのすぐ下にある、ごくごく浅い部分だけが特に小学校の授業の対象になってしまうんですよね。




解説は  コミュニケーション雑感 ⑥ 通称「心の図」解説


国語の授業についての具体的なことは、また稿を改めて詳しく書きたいと思っています。


幼少期からずっとこうした国語の読解指導を受けてきた。
中学生や高校生でもマークシートなどの影響もあって選択問題中心の問題演習で、どれだけすぐにパッと正解をみつけられるか・・・そんな訓練ばかりだったでしょう。

その膨大な蓄積の結果、今のような 初発でパッと白黒判定というのをアニメでも対人関係でももってしまう姿勢をつくりあげてしまった、というのは十分ありえることだと思います。

☆誤解しないでくださいね。
私はテスト対策指導がダメだったというつもりはないんです。
それも今の社会にとって大切な指導項目であることは重々承知しているつもりです。
(実際私も家庭教師として中高生にはテスト対策・受験対策読解指導をしてきましたし)

ただ、子ども達に「これは時代の要請からのテスト対策なのだ」と明言してほしいんです。
先ほどの心の図でいえば、「君たちがテスト勉強としてやっているのは、この表層部分の読み取りなのだよ」と。
そして本当に毎日の生活やこれからの人生でいろんな人達と関わったり、青年期以降に自分の心と対話していく際に、一番対s手うなのはこの下の方に隠れている部分なんだよ」と繰り返し示してほしいのです。



明日、もう少しこの続きを書きたいと思います。